職場の人間関係が原因で日々ストレスを抱えている方は多いです。
わたしもそんな一人です。
人は自分の思い通りにはならない
仕事はみんなでやらないと回りません。
なのに人間関係に翻弄され、身も心もクタクタ…。
もういい加減疲れました…なんとか開放されたい!
そういう時どうしたらいいのでしょう?
ガマンする
自分さえガマンしていれば丸く収まる…何も考えなくていいから楽な方法です。
楽ゆえに選択しがちな方法ですが何も改善されません。あんまり選択するイミのない行動ですね。
無理やりまたは誘導して言うことを聞かせる
職場や同僚、上司のやり方が気に食わない!そんな場合
無理やり自分の言うとおりにさせたり、おだてたり脅したりして誘導して言うことを聞かせる強引な手段です。
このやり方だと反発が出ます。
そしてその反発によりまた別のストレスが発生してしまいます。
ずっと人に噛みつき続けなければいけない疲れる選択と言えるでしょう。
人を変えようとせず、自分を変える
相手の事を変えようとしても変わってくれる事は少ないです。
仲のいい友人ならまだしも、どちらかというといがみ合っている同僚を変えるなんて至難の業!
それなら自分が変わろうではないか。
同僚の行動にイライラする自分を、同僚の行動にイライラしない自分に変えられたら…
そしたら仕事も苦痛ではなくなるのではないか?
それから、わたしが諸悪の根源かもしれないという可能性も考えました。
もしかしたらこの職場の人間関係を悪くしているのはわたしではないか?と。
あなたも一度考えてみてください…まさか、自分が?って思うけど、もしそうなら
自分が変われば職場の人間関係は改善されることになりますよね!
人間関係が楽になる考え方「課題の分離」
「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない
以前から気になっていた「嫌われる勇気」という本を読みました。そこにはこう書かれていました。
承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。
そして覚えておいてください。もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。
なるほど、たしかにそうです。
職場に限らず人間関係でストレスを感じる時ってだいたい自分の思い通りに事が運ばない時のような…。
「課題の分離」
嫌われる勇気は哲人と青年の会話方式で話が進みます。
哲人は他人から承認されるために他者の期待を満たさなくていいといいます。
むしろ承認欲求を満たすための行動は取らないほうが良いと。
他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とします。
適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。
しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。
なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。
-中略-
傍若無人に振る舞うのではありません。ここを理解するには、アドラー心理学における「課題の分離」という考え方を知る必要があります。
その中で書かれてあった「課題の分離」に衝撃をうけました!
この考え方ができるようになれば人間関係のストレスも減るのではないでしょうか。
本の中では、青年が「勉強をしない子どもに勉強させるのは親の責務だ」といいます。
しかし哲人は「勉強するかしないかは子どもの課題であり、親が「勉強しなさい」と命じるのは他者の課題に土足で踏み込むような行為」と答えるのです。
哲人 勉強するのは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。
これでは衝突を避けることはできないでしょう。
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題を分離していく必要があるのです。
青年 分離して、どうするのです?
哲人 他者の課題には踏み込まない。それだけです。
青年 ……それだけ、ですか?
哲人 およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと──あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること──によって引き起こされます。
課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。
「課題」とはなんでしょう?どこでどう自分の課題なのか、他人の課題なのかを見分けるのでしょう?
それもちゃんと本に書かれています。
誰の課題なのか?の見分け方
「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末
──たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど──を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。
間違いなく子どもです。
すなわち勉強とは、子どもの課題なのです。
なるほど。
その「課題」が他人のものであった時は自分には関係ないことと捉えればいいわけですね。
本の中では、この場合踏み込んではいけないけど、援助はするとなっています。
勉強しろとは言わないけど、勉強したくなったらいつでも援助するからね!と。
この考え方はなかったので、ちょっと嬉しくなりました。
しかし実践できるのか?と考えると少し難しそうですね。
実践してみよう!
まず今までと違う考え方に慣れるまで実践してみます。
嫌がらせされても、それは相手の課題なのでスルーしておけばいい。(反応のしようがないですがw)
人に合わせなくてもいい。同僚のやり方と自分のやり方は違うのだから、自分がやりやすい方法で仕事をすればいい。
同僚が「そのやり方はやりにくいからこっちの方法でやって」と言ってきても、同僚がそのやり方でやればいいだけでわたしまでもが同僚と同じやり方に合わせる必要はないですね。
職場で決められたルールに従わないというわけではないですよ。同僚の独自のやり方に合わせる必要はないというイミです。
もちろん同僚もわたしのやり方に合わせる必要はありません。
「課題の分離」の見分け方を間違わないように気をつけつつ…理解もまだ完全にできていないので、何度も本を読み返して理解を深めたいと思います。
この記事では「嫌われる勇気」の本の一部分を引用しただけで、ここだけを読むと誤解してしまう可能性があります。
「課題の分離」はこの本のメインではありません。
いかにわたしたちが色んな物事に責任転嫁し、自分の人生から逃げているのかがわかります。
ぜひ全部読んでみてください。
そしてできればマスターして人間関係に悩まされない幸せな人生を全うしたいですね。
追記:同僚へ
このブログを読んでいるっぽいので誤解が無いように記しておくことにします。
このブログに書いてあることはわたし自身のことだけではなく、他の方に向けて、その方に向けた書き方をしています。
だからわたしが実際にされたことだけを書いている、というわけではありません。
その辺誤解して「わたしそんなこと言ってない、やってない」となっては困ります。
わたしはブログを日記とは思っていません。日記ぽくみえてもそれは読者の目線を取り入れ、回答をする、そんな風に考えて書いています。
どうか誤解のないように、温かい目で応援していただけると幸いです。