今朝、父が亡くなりました。

ろくな親孝行もしてないうちに父が逝ってしまいました。うめだ(@umedayukari)です。

今朝3時すぎに病院から電話があり、かけつけた時には既に亡くなってました。

苦しみからの開放

ちょうど1年前の今頃に父は腰の痛みを訴え、そこからリュウマチだの、腰痛だのと痛み止めを打ってもらってましたが、だんだん悪化してゆき入院。

喉もおかしく、食事もできず、でも病院は台の上に御膳を置いて下げていくだけ。点滴だけで日に日にやせ細っていく父。

左手と右足が動かなくなり、原因を調べて欲しいと先生にお願いしたところ「文句があるなら他所へ行け」のような事を(もっとキツイ言葉で)言われ途方にくれました。

三重大学病院の先生がこっちの病院に来た時に診察してもらい、神経からきてることがわかりました。即、三重大学病院へ転院し、整形外科から脳神経外科に変わり、食事も鼻から管を入れてとるようになりました。

みるみる元気になりましたが、やはり痛みと半身麻痺は治らず。

再び田舎の病院へ

そして、また元の病院へ戻ることになりました。整形ほどのひどい扱いはなくなり、少しの食事もとれるまでに回復しましたが、体力はどんどん衰え、先月くらいから熱を出したり下がったりをくりかえしていました。

3月頃はまだオカメインコの動画をスマホで見せていたりしてたけど、4月の発熱を境に寝ていることが多くなり、今月はわたしは起きているところを見たことがありませんでした。

寝たきりでお風呂も入れず、苦しかったと思う

入院していた病院では、お風呂が1つしかなく、順番で入れていたようですが父は去年の再入院からずっとお風呂の順番は回ってきませんでした。入院してすぐくらいに1回だけ入れてもらったようです。

手足も動かせず、寝返りも打てず、最後の方は鼻のチューブを抜こうとするからという理由でミトンのような手袋をされていました。

わたしはそのような状態の父がかわいそうでしかたありませんでした。

「延命治療はいらん」

父はずっと延命治療はしなくていい!と言っていました。三重大学病院に入院した時も先生にまず最初に言ったのが、この言葉でした。

家の整理をしている時も母への感謝の言葉と「延命治療はするな」と書かれたメモが出てきたそうです。

今年に入ってから、父は半分ボケた感じになってたんですが、よく栄養剤が入ったチューブに手を伸ばしていたんです。

わたしは「これを抜いてくれ!延命治療はするな!」って言ってるのかな?って思ってました。

でもそんな事を言うと母が悲しむと思ったので黙って見ていました。

そんな苦しい1年間から、今日父はやっと開放されました。

やっと、鼻からノドを通る不快なチューブや顔中にべたべた貼られたテープから開放されました。

一日中何もない部屋でぼーっと過ごす日々から開放されました。

痰がからんでも何もできないノドとも、まっすぐ伸ばせない右足の痛みからも、暑さ、寒さ、お風呂に入れない不快さからも

やっとやっと開放されました。

お父さん良かったね。やっと辛い地獄から開放されたね。

父との思い出

最後に父と会話できたのはいつだろう?思い出そうとしてますが、思い出せません。

お見舞いや、仕事帰りによったりした時の「ありがとうな、すまんな」みたいな会話かな?

風太の歌を聞いて笑ったことだったかな?

もっともっと遡って入院する前にわたしが今の職場に転職する!と言い出した時に反対されてケンカしたことかな?

今は元気だった頃の父を思い出しています。

お父さん1年間お疲れ様。今までありがとう。

直接言えなくなっちゃったから、ブログの記事にしました。

いつもなら読み返して変な部分が無いか確かめるんだけど、今回はやめときます。