見えない鎖は人には見えない

お昼のテレビで従業員虐待のニュースが流れていました。

針金で縛ってやけどを負わせたり、爪楊枝用ボウガンで顔面に数十発以上もの爪楊枝を刺したりとひどい虐待を受けていたようです。

なぜ逃げないの?

こういう事件を見ると必ず出てくるのが「なぜ逃げないの?」という疑問です。

答えは「逃げるという考え(方法)が浮かばない」のです。

逃げられるなんて思ってないのです。

だから逃げようと思わない。

例えばですね、出入り口のない部屋にいて「出ればいいのに」って言われている感じかな。

どこから出るの?ってなるんです。

でも他人からはその人の状況や思考がわからないから「逃げればいいのに」「出ればいいのに」って言っちゃう。

そして言われた側は「出入り口なんてどこにもないのにみんなは出れる…出る方法が思いつかない自分はダメなやつなんだ」って自分を責めるんです。

そしてますます萎縮してしまう。

 

虐待されていた従業員ほどではないですが、わたしもそんな感じの中にいます。

母がニュースを見て「逃げればいいのに」って言った時に

わたしは「よく言うよ…」と思いました。

母だってわたしを束縛してるのに、逃げればいいなんて簡単によく言えるなと。

束縛されている側は逃げ出す方法がわかりません。

わたしもわかりません。

何もかも放り出して家から出ればいい?

違うと思います。

そんな事をしても母を置いて出たという自己嫌悪の中で生きるだけです。

家族との縁も切らないといけないでしょう。

そこまで乱暴なやり方でないと逃げられないのでしょうか?

わたしはそうは思いません。

わたしの中でちゃんと解決できれば、母とも離れ、独立し、お互い平穏に暮らせる日が来ると思っています。

自分でどうにもできなければ助けてもらえばいい

嫌なら逃げればいい、やりたい事があるならやればいい、誰から文句を言われようとも気にしなければいい。

でも、どうしてもできない、言われたことが気になってずっと頭の中をぐるぐるして、自分を責めてしまう。

わたしはもう自分でどうすればいいのかわからないので、助けてもらうことにしました。

今月末のFAP療法のカウンセリングにはかなり期待しています。

助けてもらうことは逃げだろうか?

自分ができないから助けてもらうのは逃げでしょうか?

助けてもらうと言うと「逃げている」という人がいます。

弱っている人が逃げ道を探し、やっと探し当てそちらへ歩みを進めると、そうやって「通行止め」の看板で退路を塞いできます。

これだけは言えます、逃げて大丈夫。

退路を塞いでくる人の言うことは今は聞かなくてもいい。いや、聞かなくても良い。

不思議なことにこの退路を塞いでくるのは先程「逃げればいいのに」と言っていた人達です。

ようするにこの人達は、右へ行こうが左へ行こうがダメ出ししかしないのです。

 

今こそできる範囲で自分のやりたい事をしているのだから助けてもらうのは悪い事じゃない。

助けてくれる人がいるのなら甘えてもいいと許してくれる人が今は必要なんじゃないかな。

自分の気持ちを否定され続けた人は、人に逆らうということに恐怖を感じています。

だから人から何か言われると逆らえなくなります。

アドバイスを受け入れないというのは「せっかくわたしのためにアドバイスをくれたのにそれを実行しないなんてなんてわたしは酷いヤツなんだ!」と考えてしまうのです。

だから、その思考から逃げるために

まずは助けてくれる人に助けてもらうのはいいことなんだと思います。